運動

社会人なってから頭の回転落ちているなぁとふと感じました。

 

と、そこで唐突なのですが運動は頭を良くするようです。

ドーパミンノルアドレナリン、アドレナリン、セロトニン等、ちまたで幸福度に直結すると言われている脳内ホルモンの分泌が促されるようです。

 

なんでも抗うつ剤よりも、うつ病に効果もあるそうで。

科学的にとか、定量的に示されているとかはどうでもいいですが、確かに運動した後には開放感というか、気分が晴れるような思いをした経験は多いです。

 

午前中にするといいとか。

 

なんて、今日は最近得た知識をつらつらと書いただけになりました。

 

今日はサッカー日本代表がワールドカップにてコスタリカに負けちゃいましたね〜

普段サッカーを見ないミーハーですが、日本国民として悔しさを感じました。

 

でもやっぱりスポーツしている人はかっこいいですね。

勝ち負けだけでなく、最後までボールを追いかける勇姿や、国間のスキンシップにも注目して、力のお裾分けをいただいています。

ありがとうございます。

 

僕も運動をしっかりと日々の生活に取り入れて頭キッレキレ、身体バッキバキの40代目指して頑張っていきます。

一緒に頑張りましょう!

 

コーヒー

私はコーヒーが好きだ。

 

コーヒーの味が好きなのはもちろん、コーヒーを飲んでいる時間そのものも好きだ。

コーヒーを飲んでいる時は、何故かゆっくり流れるように感じられる。

 

大学生の頃まで私は、あっまあまの砂糖たっぷりコーヒーを飲んでいた。

アイスコーヒーを飲む際にガムシロップが無ければ、熱湯に砂糖を溶かして自作していたのが懐かしい。

父親がそのあっまあまコーヒーを1口飲み「あっまぁぁあ」と顔をしかめていた。

余談だが父親は私より、めっぽう甘いものに目がない人間であるにも関わらず、コーヒーはブラックを好んだ。

 

そんな私も今ではブラック派の仲間入りを果たしている。

先日、たまたま砂糖入りのコーヒーを飲む機会があったが、かつての父親のように私は「あっっま!!」とつい口にしてしまった。

 

甘いに決まっているのだ。砂糖を入れているのだから。

クッキーを食べて「あっまー!!」と言う人はいるだろうか。

きっと言う人がいたしても、それはポジティブな意味であって、コーヒーに対するそれとは根本的意味合いが異なるように感じる。

 

やはり、コーヒーに関してはブラックで飲むことがかっこいいと言う暗黙の共通観念があるのではないだろうか。

かく言う私もブラックコーヒーを飲めなかった時期に「ブラックで。」と、コーヒーをオーダーする人を見るとなんとも言えないジェラシーを覚えたのを記憶している。

 

ブラックは苦い。

歳を重ねると、舌が大人になってブラックコーヒーが飲めるようになるのではなく、科学的には味覚が鈍感になってくるようだ。

(これはビールを初めて飲んだ際に美味しいと感じないことにも共通する気がする。)

これから考えると、ブラックコーヒーが飲めない人に「お子ちゃまだな〜」と言うのは筋違いなのである。

だがやはり、ブラックコーヒーを飲めることをかっこいいと、少なくとも筆者は少しばかり考えてしまっている。

だから最初のコーヒーが好きな理由に「ブラックコーヒーをゆっくりと嗜んでいる自分も好き。」と言う理由も追加しておこう。

 

こんな記事を書いているとコーヒーが飲みたくなる。

 

淹れよう。

 

と思ったら日記を書くことに集中して既に淹れていたコーヒーを冷ましてしまった。

 

まぁ、ホットでなくてもいいか。

ブラックであることには変わりないのだから。

ドン・キホーテ

ドン・キホーテに買い物に行ったことはあるだろうか。

私は中学生の頃からよくお世話になっている。

 

何せ、安いのだ。

それになんでも揃っているのだ。

日本にこのような店が他にあるだろうか。

 

ドン・キホーテを知らない人のために少しばかりドン・キホーテについて説明することにする。

業態としては小売店ということになる。

愛称はドン・キホーテである一方で正式名称はパン・パシフィック・インターナショナル・ホールディングスという阿保みたいに長い名前なのである。

経営者曰く世界でも通用するように正式名称を定めたようだが、ドン・キホーテHDの方がよっぽどいいと感じるのは筆者だけだろうか。

 

さて、そんなことはさておきドン・キホーテに何度か行ったことがある人であれば、店を出る際に感じたことのある感情をズバリ言い当てよう。

 

「いやぁ、こんなに買うつもりなかったんだけどなぁ・・・」

 

ドン・キホーテには魔物が棲んでいる。

目的のものを探して歩いていると所狭しと並べられた品物の間から声が聞こえてくるのである。

 

「あれ、これは買わなくていいの?」

「そう言えば肌着足りないって言ってたよね?」

「あ、てかシャンプーなくなりそうなんじゃない?今日特売しているしかっときな。」

「小腹も空いてるっしょ?ついでにおにぎりとかも買ってけよ。」

 

そうして、ドン・キホーテから出てくる客は両手いっぱいに黄色いビニール袋を引っ提げて疲弊した顔で出てくるのである。

 

筆者はまさにこの魔物によって被害を受け続けている。

なのでひとつおすすめしたいのは精神的な特訓をせずにしてドン・キホーテに行くべきではないということである。

精神状態が不安定な状態なんてもってのほか、仕事終わりや運動後など疲れている状態の時も行くべきではない。

修行が必要なのである。

 

少なくとも5年ほど鍛錬を積んだ方がいい。

精神的にも。肉体的にも。

筋トレ。瞑想。ヨガ。

登山なんかもいいだろう。

サウナなんかも効果的ではないだろうか。

 

とりあえず言いたいのは鍛えることなくドン・キホーテなんて行こうものなら魔物の餌食になりに行っているようなものなのである。

鍛錬を積む以外に避ける方法はないのか。

 

ほぼないに等しい。

あそこには人間の3大欲求どころか、第6感までも刺激してくる何かがすんでいる。

くれぐれも気をつけてほしい。

万全の準備で挑んでほしい。店内に鳴り響く軽快なドン・キホーテのテーマソングは闘いのゴングそのものなのである。

「ドン、ドン、ドン、ドンーキ、ドンキ・ホーテ〜♪」

 

健闘を祈る。

 

11月

散歩中、近所にある蕎麦屋さんの窓にふと目をやるとそこには"年越し蕎麦受付中"と張り出されていた。

 

「もうそんな時期か。」

 

今年は去年に比べてより一層過ぎ去っていくのが早かったように感じる。

であれば、来年は今年よりもすごいスピードで走り去っていくのではないだろうかという言いようのない不安に駆られる。

走り去っていかれては問題である。ともに走れば少しは今年より長くも感じるのではないだろうか。

 

歳を増すごとに時間の感覚が早くなる原因のひとつとして新しいことを経験していないことが巷では挙げられる。

新しい経験をしていないことが、何故、その要因足るのかは脳外科医の先生にでも聞いてみてほしい。

 

でも確かにそうなのではないかと感覚的には感じる。

今年、いくつ新しいことをしただろうか。

数えるほどであることはたしかだ。

 

けれども思い返せば今年1年楽しい日々も多かった。(もちろん、辛い日、落ちる日もある。。。)

一方で、その楽しい日々は過去からアップデートされているだろうかと質問されると私の場合は「NO」である。

 

過去の楽しかった日々、楽しかった友達との会話、遊び方。

すべて記憶に新しく、それをもう一回したい、再現したい、体験したい。

という思いが多かったような気がする。

 

それはあまり上手くいかない。

と、私は私の経験則から知っている。

常にアップデートすることが必要なのである。

「あの時のあれがしたい!!」と思って産み出されるのは「あの時のあれ」には及ばないが嫌いではない何かでしかないかと思われる。

 

ただ、再現しようともがいた自分は褒めてやりたい。

話を戻すと、これをさらにアップデートしていくことそれこそが、大人として新しい経験をするということなのではないだろうか。

 

子供のように全く新しいモノに触れるというのは少々、困難なことは想像に難くない。

一方で、アップデートであればどうだろうか。

できそうではないだろうか。

 

その先に、まだ見ぬ、私の追い求めている「何か」があればなおラッキーである。

最近は眠い。とりあえず早寝から始めよう。

そして早く起きて、また何かしよう。

 

9月

早いもので今年も9月に入りました。

8月まではそんなことないのに、9月になると急に年末を身近に感じ始めるのは僕だけでしょうか。

 

と、まぁ夏があっという間に走り去っていき、秋の気配を感じ始めたわけですが、私は3年寄り添った恋人とお別れをし早くも2ヶ月が経とうとしております。

 

別れは突然、、、ではなかったです。

「あ、これもしかして」と思うことはありましたがその現実から目を背けたくて、向き合っておりませんでした。

別れの日に「恋人より友達でいた方がいいと思った。」と伝えられた私は受け入れる振りをして受け入れました。そうするべきだと思ったので。

 

別れの理由は、私の未熟さと弱さにありました。

いつしか彼女とはぶつかり合うことが多くなり、せっかく二人で行ったディズニーランドでも私のせいで険悪になる始末。

彼氏の風上にも置けません。

 

彼女は泣きながら私に想いを告げてくれました。

それこそ、1年目の彼女の誕生日にディズニーシーに行こうと、サプライズでチケットを渡した時に泣いていた彼女の涙とは全く異なるものでした。

 

別れるとほんとに辛いものです。

毎日していた連絡(多分、3年間連絡を取らなかった日はないのではないでしょうか)も、電話もお泊まりもなくなります。

思い出されるのは愛しい彼女の笑顔のみになります。

私は彼女が大好きだったんですね。

 

2ヶ月経ち、やはり「寂しさ」ではなく彼女のことが好きだと感じた私は、素直に相手に想いを伝えたいと思いました。それで持って振られて前を向こうと思いました。

彼女は本当に素直で優しくて、ちょっと気が強いところもありますが、本当はたくさんの女の子の部分がある、素晴らしい女性でした。

それは最後まで変わらず、たくさん考えてくれて、その上で出した結論だと伝えてくれました。

その意思は硬いうえ、寄りを戻してもうまくいかないだろうと伝えられました。

 

返答が分かっていても涙は出るものです。

でも本当に好きだったからこそ、ちゃんと話してくれてありがとうと伝えたかった。

辛いけど、前を向こうという気になりました。

 

この世で一番辛いものはなんでしょうか。

上司に叱られた時、いじめにあった時、部活でレギュラーに入れなかった時はもちろん辛かったです。

しかし、恋愛の辛さほどではありません。

ひいては「人との別れ」がこの世で最も辛いものだと若輩ながら思います。

 

もう会えないわけではありません。

彼女とはお互いに人としてとても尊敬できるので、これからも友人として付き合っていこうと話しました。喧嘩で別れたりして、縁の切れているカップルもいる中で、お互いにそう思えたのは幸せなことだとおもいます。

何より、それだけ好きな人と出会えたことが幸せだとおもいます。

たくさんありがとう。

 

いつまでもクヨクヨしてばかりいられません。

どう足掻いても人生は一回なんです。このままのダサダサな男でいいわけないです。

ある意味、もっとちゃんとしっかり良い男になれと、背中を押された気持ちでこれから頑張っていこうと思います。

何より、そんな自分のことを一番嫌いなのは自分です!!元気出せやあほ!!

 

忘れることなんかできません、全部背負って、強くて優しいけれど、ちょっとかっこ悪い、けれども最高にかっこいい男になりたいです。

なります。

 

ファーイト、俺!!!!

 

 

二兎を追わない者は二兎を得ず

題名を見て違和感を感じる方がほとんどでしょう。

 

きっとこう思いますよね。

「二兎を追う者は一兎をも得ず」

これが正しい、世間に流通している諺。

この諺には一つのことをやり抜け、贅沢言うな、よそ見するな等々のニュアンスがあります。

 

しかし、僕はこの諺に意を唱えたいと思います。

たとえ無謀でも二兎を追わなければ二兎を得る可能性は0なのです。

言い換えれば二兎を追って成功する確率は0ではないのです。

 

先人の経験から帰納法的に産み出されるのが諺なので、とやかく言っても仕方がないのも事実です。ただ、現代人には、この諺が出来た時よりも遥かに多くの可能性と選択肢が与えられています。

士農工商の時代ではないのです。

語弊を恐れずに言えばトンビが鷹を産みまくる時代なのではないのでしょうか。

 

一方で、可能性、選択肢が多いことが一概に幸せであるかと問われると、それもまたNOだと思います。だからこそ先人の教えに習いながらも、それに囚われすぎずにトライすることが必要なのでしょう。

かの有名なスポーツブランドのキャッチコピーで締めくくりたいと思います。

jusut do it!!!!!!!!

家族

私はあまりドラマを見ない。

ハマってしまうのである。

続きが気になって空き時間があるたびに観てしまって、あまりに多くの時間を費やしてしまうことに引け目を感じてしまう。

 

そんな私が数ヶ月前に軽い気持ちで海外ドラマの第一話を恋人と見た。

そう、本当に軽い気持ちで、名前を聞いたことがあるからという理由でNetflixの作品名をポチッと押してしまった。

愚かな、、、

案の定、数日後から多大な時間をこのドラマに溶かすことになった。

でも大変に面白かったので問題なし。

 

内容に触れることからも、ネタバレを避ける為にドラマ名は書かないでおくが、シリーズで言えば5まであり、1シリーズに約20話あるので100話近くあることになる。

 

このドラマは終盤で、連れ添ってきた兄が実は血縁関係のない兄であることが明かされる。

要するに父母と4人家族のうち、養子で迎えられた兄だけ血のつながりがないということになる。

この事実を母親に打ち明けられた弟は衝撃を受けるが、最終的に、自分を捨てた「血の繋がりのある母」ではなく、これまで寄り添ってくれた「血のつながりのない兄」を選ぶ。

血縁ではなく心の繋がりを選択したのである。

 

私はこの弟と同じ考えである。

 

「家族」とはなんであろうか。

 

昔、この問いについて深く考えたことがある。

血の繋がりであろうか。同じ場所で生活している人のことであろうか。

もちろん、それが家族を定義する一つの要素になり得ることは否定しない。

ただ、やはりそれだけでは家族として定義するには不充分ではないだろうか。

 

私の中での答えは「無償の愛」である。

 

「帰る場所」とでもいうのであろうか。

父親は金儲けしようと思って息子を育てている訳ではない。

母親は人に自慢する為に、食事を作ってくれる訳ではない。

息子、娘のため、愛しているからやっているのだ。

これは私が家族に恵まれた環境で育ったからこそ書けることなのかもしれない。

 

血縁関係があっても子供に虐待する親も存在し、親を殺す子供もいる。

血縁関係がなくても、息子を本気で愛し、色んな経験をさせてくれて育ててくれる親もいる。

どちらが家族だろうか、血の繋がりなんてなくても後者であることは明白だと思う。

 

「無償の愛」は口にするのは容易くても、大変、珍しく、尊いものであると感じる。

今は東京に出てきたことで、家族とは離れた地で生活しているが、心の中では常に多大な愛、感謝を感じている。

ありがとうございます。